ドラムス、ジョニー吉長! の巻

 その名前を初めて耳にしたのは1978年。ラジオ関東「電撃わいどウルトラ放送局」。
パーソナリティはChar。ゴダイゴとのツアーを終え、「新しいバンドを作りました」という報告。
「ドラムはジョニー吉長、ベースはルイズルイス加部」 慌ててメモを取った。
「ルイズルイス加部は知ってるぞ、でもジョニーって人は知らないなぁ....いや、ロクエフかなんかで
Charの曲を演ってる酋長みたいな字ヅラの人のレコード広告を見たぞ、あの人かぁ」が正直なところ。
なんてったって14才だ。許してほしい。

 そして12月中野のチケットを同級生のお姉ちゃんに頼んで取ってもらって....それが流れて(笑)
年が明け、ポチポチ雑誌にもJLCは登場する様になる。寒い冬に「Rock Steady」誌は暖かかった。
「原宿行けば演ってるのか...でも原宿の何処?」なんてったって14才だ。(笑)
神大オールナイトは行けない。同伴してくれる様な理解ある親なんていない。
そして迎えた1979年7月14日。この日初めて音を耳にする。
この辺りは別ページで。

 それから随分長いこと、JLCのレコードを聴きながらギターを弾いていた。
それはつまりジョニーのドラムと加部さんのベースをオケに弾いて育った様なものだった。
好きになる音楽は大抵「ジョニーみたいなドラム」な事が多かった事に後年気付いた。
ジョニーのドラムはロックだけではなく、ソウルやファンクの世界の扉を開けてくれた。
それは広い広い世界への扉だった。果てなんて未だ見えやしない。

「Charに憧れた」少年は、「ジョニー、まーちゃんと音出してみたい」青年になっていた。
それがどれ程身の程知らずな事かは判っている。でもなんたって「根拠の無い自信に満ちた20代」だ。
これまた許してほしい。
「いつかA面がTensawのリズム隊、B面はJLCのリズム隊でソロアルバム作ったるねん!」
それが「夢」だった。「妄想野郎」と失笑されても構わない。
なんてったって「根拠の無い自信に満ちた20代」だ。


いつしか現実と身の程を知る事になるけれど、僅かながら細い細い線と
小さな小さな点で繋がりが見え隠れしてきた。
「アルバム作る」なんてとんでもないけど、続けていれば何処かで何かしらあるかも知れない
細い糸が見えてきた。
それだけが「生きる糧」だったかも知れない。




2012年6月4日早朝。1通のメールでその細い糸がプツンと切れた事を知った。
ジョニー吉長 永眠。







随分前から容態が良くない事は聞いていた。
ずっとJohnny Moonに祈り続けていたのも虚しく....



 7月4日、下北沢。
「ジョニー吉長 お別れの会」
いきなり目に飛び込んできたJLCフラッグ。


嗚呼、こんな見納めの仕方ってあるのか。
JLCがオフィシャルに解散していても、そんな事はどうでもいい事だった。
不規則な活動だった「あのバンド」には十分馴らされている。
小さな花火はいらない。
いつかデッカイ花火を打ち上げてくれると思っていた。
その時を待つ間を埋めるだけの十分な音源も映像もある。
それが....



聴こえてきたのは「LOVE CHILD」
涙を抑えようとは思わなかった。
ちくしょう!ハンカチ忘れた。半袖だからシャツでも拭えねぇや!


献花を済ませてもなかなか会場から立ち去れなかった。
夢遊病者の様に会場内を彷徨った。




しばらくして....「行きますか...」
私達は深々と一礼し会場を後にした。




その後、関係者のみの席に参加させていただいた。
錚々たる面々が皆、ジョニーを思って呑んだ。
ROCK鳴館のVTRが流れ続けた。
暑さのせいか、連日の寝不足のせいか、一瞬Blackoutした。
真っ暗な中で、ジョニーが笑って俺を見ている..?...気がした?いや、確かに見えた。


最後は気丈に振舞うマリさん、あっくん、ケンケンによる三本締め。
「ジョニー!ありがとう!」の声が会場内に響く中
私は心の中でメンバー紹介をするが如く叫んだ。

「ドラムス、ジョニー吉長!」















中古屋のひとりごと 奇跡的に残っていたバックナンバーズ











ごめんなさい、誰に許可取る事もなく書き、載せました。
そうせずにはいられませんでした。敬称略もお許し下さい。
心よりご冥福をお祈りいたします。
2012年7月7日 記